こんな楽譜、こんな本

  • 2023.02.19 Sunday
  • 20:02

 

 

少しずつ春の気配が濃くなってきました。

 

昨年まではあまり気にしていなかったのですが、

今年はどうも花粉症がはっきりと出てきそうな予感がします…。

早朝にでるくしゃみの連発もそのひとつなのだと思われますが、

食事中にも透明な鼻水がタリ〜と流れてくるのが悩みです。

 

 

そのまま食べ続けていると

ちょっと〜、食欲失せるから何とかしてっ 鼻かみなさいっ

 

とトイメンに座しているカヤニカままに叱責されます。

 

食卓ではともかく、

 

4〜5月に企画されているコンサートの演奏中に鼻が垂れてくると困るなあ

 

と心配しているところです。

 

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閑話休題、新刊の楽譜が届きました。

 

カール・チェルニーのフーガ集です。

今月2日に春秋社より刊行されたばかり、まだ刷り上がったばかりの楽譜です。

 

カール・チェルニー『12の前奏曲とフーガ──フーガ演奏教本 作品400』(春秋社)

 

チェルニーと言えばピアノ教室の生徒たちが忌み嫌う「練習曲」の作曲家。

「チェルニーの練習曲をやらされたことがない」という人はほぼ皆無と思われます。

 

チェルニーは膨大な数の練習曲を残していますが、明晰に構築された秀逸な教材です。

音楽的にも特に悪いところはないのですが、楽しくない。幸せになれないのです。

 

この試練に耐えた者にこそ栄光が訪れる

 

といった、スポ根、スパルタ的な傾向があるのかも。

 

しか〜し。チェルニーは何もイヂワル目的で練習曲を量産したわけではなく、

しっかりとした手ごたえのある芸術作品も創作しています。

何と言っても、知る人ぞ知るベートーヴェンに師事していた人ですからね。

 

そしてかの技巧派、フランツ・リストの先生でもありました。

じつは、すごい人だったのです。

 

《演奏教本》とは銘打ってあるものの、なかなかの力作のようにお見受けしました。

私も初めて出会った曲ですし、おそらく日本初登場だと思います。

 

フーガというジャンルの作品は、初見演奏に慣れた者にも手ごわい存在です。

弾けるようになるまでに結構手間ひまがかかります。

 

というわけで、この曲集に関しては、すでに音源(世界初録音!)も準備されています!

 

https://diskunion.net/classic/ct/detail/1008579807

 

「人の弾かない名作を弾いてみたい」という方におすすめです。

 

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隠れた名曲と言えば、フリードリヒ・クーラウという作曲家も忘れてはいけません。

ベートーヴェンと同じ時代に活躍した人です。

フルーティストにとってはスタンダードのレパートリーの作家ですが、

ピアニストには「ソナチネの作家」でしかない、かわいそうな存在です。

 

ところがクーラウはソナチネ以外にもピアノのソロ曲をたくさん創作し、

こんなにたくさんの楽譜が出版されているのです。

ソナタ、変奏曲、小品集などなど何でもござれ。

 

発行元はインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会。こちらをご覧下さい。

 

http://www.kuhlau.gr.jp

 

 

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ことのついでに最近読んだ本のうち、特に感銘を受けたものを2冊ご紹介しておきましょう。

1冊めはこれ。ちょっとお堅い学術書です。

 

M.A.ボンズ『ベートーヴェン症候群──音楽を自伝として聴く』(堀朋平・西田紘子訳、春秋社)

 

私たちはクラシックの作品を聴くと、そこから作曲家の人生や精神性を聴きとろうとします。

演奏家としても、その表現をめざして切磋琢磨するのが大きな課題です。

 

そこがおもしろいところではあるのですが、

そうしたアプローチはベートーヴェン以降になって発生したものなのだそうです。

「芸術作品の理解度は、演奏家と聴衆の認知力に委ねられている」というわけ。

 

それまで、つまりハイドンやモーツァルトの場合はそうではなく

 

聴衆が理解できない原因は、作曲家にある

 

というスタンスだったということです。

 

お笑い芸人が必死でコントを作っても、客が笑わないのは芸人がわるい、

という状況と似ていますね。

 

当初、作曲家は芸術家ではなく、職人だったのです。

 

そんなことが述べられている、どちらかというと専門家向けの固い本ではありますが…。

 

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そうではなくて、娯楽としてもどっぷり楽しめちゃうのは、こちら。

 

中田朋樹『彷徨──フランツ・シューベルトの生涯』(鳥影社)

 

シューベルトの人生を描いた小説です。何と941ページの大著。

手に持つと重いです。厚くて枕にできます。

でも、あまりにおもしろくて私は思わず一気読みしてしまいました。

 

100%ノンフィクションの伝記ではないのですが、

司馬遼太郎の歴史小説とおなじようなもの、と考えてください。

さもありなん、という生き生きとした描写がたまりません。

 

でてくるウィーンのストリートをグーグルマップで検索すると、ちゃんと見つかります。

ウィーンに行ったことのある人にとっては

 

あそこか〜。うわ〜、たまらん

 

という感激も。

ぜったいもう一度行きたくなります。

 

なお、かなり濃厚な性描写も含まれていますので、

《即興曲》や《楽興の時》などを練習中の若者に与える前に、

保護者や指導者による事前の内容確認が必須です!

 

 

 

 

「音大卒」は就職の武器?

  • 2015.04.28 Tuesday
  • 16:06


 

大内孝夫『音大卒は武器になる』(ヤマハミュージックメディア)

 

「書評シリーズ」改め「こんな本、読みました」の第6弾です。紀伊國屋書店の「書評空間」と同じく“である調”なので少々雰囲気が異なりますが、ご寛容下さい。
 

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新しい年度が始まった。学生も、そして新社会人も心機一転、
「よしっ」と思っているに違いない。

社会人として自立するにはきちんと就職し、収入を得なければならない。

日々の生活はアルバイトでもしのげるが、これからの長い人生を自分なりに設計し、歩んでいくためには、安定した収入を確保したい。

一番のハードルは「就職」だろう。

フリーでいるか、正社員になるか。

企業に就職したいと思ったら、

大学4年生になってからあたふたとするのでは遅い

というのが世の中の常識だ。

私の指導している学生も“正当な危機感”を持ち合わせている者は、

すでに3年生の時から活動開始していた。

本来「大学は勉強するところ」のはずなのだが、そうもいかないのが現実らしい。

私が教鞭をとっているのは私立の音楽大学だ。

みな音楽に興味を持ち、夢を描いて入学してきた。

大学を通じてさまざまな経験を積み、それぞれ大きく成長していく。

最終的に音楽で身を立てられるのであれば、音大で勉強したことが実ったことになるのだが、
純粋に音楽だけで生きていける人は、ごく限られている。
確率は限りなく低いのが現実だ。

悩んだ末に一般企業に就職する道を選ぶ、あるいは選ばざるを得ない学生もたくさんいる。

一般企業にアプローチをする場合に「音大卒」で大丈夫か、というのは

音大生が持つ共通の不安だろう。

そんな不安を一発で吹き飛ばしてくれる本が登場した。

「音大卒」は大きな武器なのだという。

これは嬉しい。早速紐解いてみた。

著者の大内は某有名音楽大学の就職課で学生の就職アドバイスをしている元銀行マンだ。

一般企業で培われた視点で音大生の能力を評価すると、

それが実に素晴らしいのだという。

「音楽しかやってこなかったから、社会に適応できるか不安…」
などという心配は杞憂だ!

と大いに力づけてくれる。

そんな心地よい言葉を少し紹介しよう。

私自身「言われてみればそうだねえ」と思うところがたくさんある。

音大生のコミュニケーション能力はすごい

少人数やマンツーマンのレッスンがあたりまえの音大生。おのずと年上との接し方を学んでいる。自分より30も40も年上の人と物怖じせず話すことができる。これは当たり前ではない、すごい能力である。

時間を守る習慣がある

リハーサルなどには遅れてはいけない、という習慣がふだんからあるため。また「本番の演奏会には何としても間に合わせなければならない」という日常から、準備に必要な時間を計算したプロセス管理もふだんから要求されている。

いくら叱られてもめげない精神力

練習不足でレッスンのとき長時間叱られっぱなしでも、めげないで立ちなおる。

音大生とは「強烈なプロフェッショナリズム集団」である

演奏を頼まれたからには、たとえノーギャラでもベストをつくすのが当たり前。また何かの事情で自分が出演できなくなった場合には必死に代役を捜す責任感は、音楽をやっているからこそ培われた評価材料。

他にもたくさん掲載されている。

また、自分の人生を歩むに当たって

「音楽を続けるか」「音楽から離れるか」

に関する重大な判断への納得できるアドバイスも的確だ。

音楽を続ける道を選んだ場合の進路とその説明も親切だ。

失敗した人生の例にも事欠かない。

ありそうだなあ、ということばかりである。

そしてエントリーシートや面接の際に

音大生であるメリットをどうアピールするか

に関しても、わかりやすいアドバイスが満載だ。

褒め言葉ばかりで終わってしまいそうだが、

就職活動を控えている音大生はぜひ読むべきだと思った。

私は大学の図書館から借りたのだが(一般公開される前から予約していたのでいの一番に入手できた)、すでに複数名の予約が入っているようだ。

この書評をはやく仕上げた上で本を返却するのが、私の責務のようである。


 

霊界との交信

  • 2015.04.07 Tuesday
  • 16:52

 
ローズマリー・ブラウン『詩的で超常的な調べ』(平川富士男訳、国書刊行会)
 
「書評シリーズ」改め「こんな本、読みました」の第5弾です。紀伊國屋書店の「書評空間 」と同じく“である調”なので少々雰囲気が異なりますが、ご寛容下さい。
 
 


「死後の世界は存在しない」と固く信じている読者にとっては、「また例の、あれか」という印象しかもたらさない本だろう。しかし「ある」「あるかも知れない」「ないとは言えない」と思う読者、それもクラシック音楽ファンでピアノが好きな読者にとっては、興味深い内容が語られている。
 
著者のローズマリー・ブラウン(1916〜2001)は子供の頃からさまざまな霊体験を重ねてきたイギリスの女性だ。霊界にいる多くの音楽家たちの霊を感じ、姿を見ながら会話をし、中でもフランツ・リストとは密度の濃い交流を保っていた。リストの指示(口伝)に従って、たくさんのピアノソロ作品の楽譜を完成させている。一般的には「まゆつばもの」とされ勝ちな話だが、1960年から1970年代のイギリスで大きな反響を呼んだ。
 
訳者の平川もスピリチュアル・ヒーリング(霊的治療)に興味を持つ“有識者”であり、翻訳者としては最適だろう。とても詳細で親切な訳注はわかりやすく、その量も本文のほぼ三分の一に匹敵する大規模なものだ。本書に目を通す際には、ぜひこの注を参照しながら読み進まれんことを推奨したい。スピリチュアルなこと以外の、音楽に関する専門的な領域の説明も、一般の読者によくわかるようかみ砕かれている。
 
登場する音楽家たちを挙げてみよう。「本書に登場する主な霊たちの生前のプロフィール」という冒頭のカラーページに掲載されている順に紹介したい。いわく、リスト、ショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン夫妻、ブラームス、グリーグ、ドビュッシー、ラフマニノフ、モンテヴェルディ、バッハ、ベルリオーズ(およびほんの少しだけ登場するモーツァルト)、そして音楽家としては素人同然のブラウン夫人がこれら大作曲家たちの霊との会話に戸惑わないよう、さりげなくサポートしてくれるイギリスの音楽学者、ドナルド・フランシス・トーヴィー。作曲家以外にもアルベルト・アインシュタインとアルベルト・シュヴァイツァーに関する言及がある。
 
数人ならまだしも、さまざまな時代と地域にまたがるこれだけの数の作曲家たちとの交信、それも英語を介してのコミュニケーションとなると、それこそ眉につばしてしまいたくなる。バッハやベートーヴェンは英語を話せたのだろうか? しかしヘンデルはイギリスで活躍し、英語はできなかったハイドンもイギリスに滞在していたぐらいだから、ヨーロッパの知識階層における母国語以外の言語に関する素養は思ったよりハイレベルだったのかも知れない。
 
霊媒としてのブラウン夫人が享受した音楽に関する教育はプロフェッショナルとはほど遠いものだった。ピアノも弾けないわけではないが、素人の域を出る腕前ではない。したがって、作曲家が霊界から伝える作品を採譜するにはかなり苦労したようだ。そうした作品の一部は出版され、他の楽譜(ブラウン夫人が作曲者の指示に従って書いた自筆譜)は遺族によってすべてロンドンのブリティッシュ・ライブラリーに寄贈されている。その数は数百点にのぼるとのことだが、図書館による目録は未完であり、公開されていない。
 
今から約半世紀前、ブラウン夫人の存在がメディアに紹介された際には、様々な形でその信憑性が精査・検証された。霊の世界のことであり、結論が出たわけではないが、「すべてはブラウン夫人の思い込みである」という排除には至らなかった。「その可能性は否定できない」のである。本を読んだ限りでは、ブラウン夫人が自己顕示欲のために嘘をついたり、つじつま合わせをしているようには思えなかった。
 
興味深いのは巻末に掲載されている《グリューベライGrübelei》の楽譜である。リストの霊が創作し、それをブラウン夫人が筆記したものだ。タイトルを和訳すると「思いわずらい」だろうか。「傷心」とした方が詩的かも知れない。落ち着いた作風だが、右手は四分の五、左手が二分の三拍子(あるいはその逆)で、中間に八分の六拍子のエピソードも含まれている作品だ。調性も変化に富み、強弱記号も精細に書き込まれている。リストの作品は“わかりやすい”構成のものが多いが、《調のないバガテル》のように、現代音楽を先取りした無調に近い実験的な作品も創作されている。この作品もそういったもののひとつなのだろうか…。いずれにせよ、ブラウン夫人が創作したものではなさそうだ。




 

シニア世代に教える最高のピアノレッスン法(ヤマハミュージックメディア)

  • 2015.01.29 Thursday
  • 21:44


本吉ひろみ『シニア世代に教える最高のピアノレッスン法』(ヤマハミュージックメディア、2013)

 
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自分自身も還暦を迎えてみて「何か変わったか」と問われれば、「特に何も…」としか答えようがない。体力的にはその限りではないが、何とか持ちこたえている。気持ちは若いときと同じだ。「二十代と変わらない」と言って語弊があるならば、「四十代以降はほとんど変化なし」としておこう。
 
「そうか、もうそんな年になったか」と感じるとすれば、それは区役所から月4回無料で銭湯に入れる「ふれあい入浴証──ゆげじい」なるものを頂戴したからかも知れない。しかし還暦が人生のひとつの区切りであることは確実で、その心情は昨年108日のブログで告白したとおりである。
 
「区切り」は「新たなスタート」を意味する。新しい事を始めるのにまたとないチャンスに違いない。「60歳になったのを機会に、ピアノを始めてみよう」と考えるのも、前向きですてきなアイデアだ。
 
その気になれば「ピアノ教室」はすぐ見つかる。大手の楽器店が展開している全国規模のピアノ教室チェーンもあるし、個人の先生が開講しているピアノ教室も枚挙にいとまがない。こうしたピアノ教室は子供の習い事の受け皿として人気を博していたが、最近はシニア層も「経営のための大切なお客さま」として歓迎されている。しかしシニア層に特化した指導法として開発すべき課題は山積しているようだ。まだまだ詰めが甘い。
 
昭和の子供たちは「右にならえ」式にピアノを学ぶことが多かった。高度成長期にはピアノもよく売れ、メーカーも楽器店も羽振りがよかった。しかしそれはすでに昔話である。少子化の問題もあるし、「夢でメシは食えない」という現実も切実だ。世の中も「辛抱強く何年もかけないと上達しないものは敬遠される」という風潮になった。
 
一方、世の音楽大学や専門学校は懲りることなく毎年少なく見積もって数千人、おそらくは万単位の数の卒業生を世に送り出している。全員が音楽で身を立てるわけではないのは当然だが、「ピアノ教室の先生になる」というのは、身近な選択肢のひとつだ。よくあるパターンは「大手の楽器店が展開しているピアノ教室の講師になる」というもの。しかし、これは思ったより厳しい労働環境のもとにある。
 
であれば──恵まれていれば、の話だが──自宅でピアノを教える、あるいは自分で教室を立ち上げる、という手がある。しかしピアノ教室の看板を出しても、生徒が集まらなくては経営が成り立たない。星の数ほどある教室の中で頭角を現し、少しでも多くの生徒を集めるには、アピールできるセールスポイントが必要だ。というわけで、「子供だけをターゲットにするのではなく、シニア層をもとりこもう」というのが最近のトレンドになっているのだ。
 
子供たちも独立して孫も生まれ、「お金に困っていない」「時間はたっぷりある」「自宅にピアノがある」というシニアは少なくない。贅沢はできないながらもある程度の年金は貰えているし、その昔「みんなも持っているならば」と子供に買い与えたピアノが、久しく使われないまま鎮座しているケースがかなりある。
 
街のピアノの先生にとって、見過ごしてはならないターゲットだ。だが本気でシニア層の指導をめざそうとしても、シニア層向けの音楽教育の歴史が浅いだけに、わからないことも多い。昔ピアノを習ったことのある人ならばともかく、音符の読み方から教えなければならない正真正銘の──それも記銘力が衰えつつある──初心者の指導は、そう簡単ではない。子供の初心者用教材はどれを選んで良いかわからないほどたくさんあるが、それらを年配の生徒にそのまま流用できるわけではない。子供には嬉しいディズニーのキャラクターが印刷されていても、それで大人の意欲が高揚するわけではないからだ。
 
身体の機能として何ができる、何ができない、ということも、若年層とシニアとでは大きな差がある。シニア層のメリットは「説明は理解できる」ということだが、理解したとおりに身体が動くわけではない。右手と左手で違うことを同時にやるのが困難なのは誰でも同じだが、年配者はそれを克服するのに想像以上の時間を必要とする。「何が喜びか」という点でも、シニア層の感性は千差万別だ。
 
著者の本吉ひろみは「60歳以上で初めてピアノを習う人」に特化した教室を立ち上げ、すばらしい成果を得ている。「シニア層の指導にはグループレッスンがお薦め」というのも、経験者であればこその提言だ。本書にはそういう人たちを指導する際に役立つさまざまなアイデアが紹介されているが、それらは単なる思いつきではなく、医学的な考察や、各種の統計から読み取れるデータをふまえた、科学的な根拠に基づいたものとなっている。加齢に由来するもどかしさ、体力や記憶力の衰え、老眼の問題などなど、そこには「シニアならでは」の課題がたくさんある。「シニアを指導する」という専門性を真摯に直視し、工夫をしなければ、教室も発展しない。
 
余談ながら、実際のデータを眺めていると、つい「これって、私のことだよね」と、不安と焦燥に駆られてしまう。「ソロ活動に再チャレンジするぞ」と宣言してしまった今、う〜む、と考え込んでしまいそうだ。
 
…それは単なる私情としても、「シニア層の希望をふくらませ、日々の時間を充実させるための適切な指導」には大きなビジネスチャンスがありそうだ。ビジネスから切り離した一般的なカルチャーとしても、大変有意義なことのように思われる。
 
ところで、シニアを指導するにはやはり指導者もそれなりの年齢であるべきだろうか? 自身の「大人のスイミングスクール体験」から、私としては先生が若くても特に問題ないように思うのだが…。要は「教え方」にある。




 
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合理的避戦論(イースト新書)

  • 2014.09.02 Tuesday
  • 19:15
 

書評シリーズ第3弾です。紀伊國屋書店の「書評空間 http://booklog.kinokuniya.co.jp/imaiakira/」の継続バージョンと思って書きました。今まで書きためてきたものと同じ「である調」なので少々雰囲気が異なりますが、ご寛容下さい。
 



小島英俊『合理的避戦論』(イースト新書
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このところ日本を取り巻く国際情勢に落ち着きがない。「平和ボケ」という言葉は、もはや死語となった。のんびりムードに浸りながら自国の発展と経済成長を追い求めていた時代は過去のものとなり、中国との摩擦、韓国との不和、予知できない北朝鮮の行動、譲らないロシアなどなど、日本と海を隔てたアジア諸国の状況は、決して甘いものではない。ただ、向こう側から見れば、現在の日本の政治の動向もかなり不愉快であるには違いなく、だからこその態度なのだろう。すべての国が疑心暗鬼になっている。
 
ヨーロッパをはじめとした大陸のように、日本と他国との国境が「地図上に書かれた、ただの線」であれば、日本人も生ぬるい風潮に浸っていられるはずもなく、外交もずっと賢いものになっていただろう。大昔、元寇の時には台風がその危機を救ってくれたが、明治維新の際にはそれもかなわず、国家の存亡を賭した外交手腕が問われることになった。それにしても「みんなと同じがいい」となり勝ちな日本人のメンタリティーにはどこか「脇の甘さ」が感じられると思うのは、私だけだろうか。
 
日本はその後二回の世界大戦を経験し、最終的には敗戦国として辛酸をなめた。そこに至るまでの歴史の中にあった平和に対する価値観、そして第二次大戦後の平和の推移が、本書にはわかりやすくまとめられている。冒頭の章として紹介されている著者と東郷和彦(元外務省欧亜局長・オランダ大使)の対論も興味深く、現在の日本が置かれている国際情勢の中で何が問題になっているのかがよくわかる。
 
国際問題として気になるキーワードの中で主なものは「集団的自衛権の行使容認」「憲法第九条の解釈」「中国との尖閣諸島領有権問題」「韓国との竹島領有権問題」「韓国との従軍慰安婦問題」「自衛隊の扱い」そして「北朝鮮との拉致被害者問題」あたりだろうか。マスコミの報道だけを鵜呑みにしていては情緒に流され、誰が、そして何が正しいのかがわからなくなってしまう。もちろんこういった問題に「正解」はなく、下された判断が正当だったかの評価は歴史の中でおのずから明らかになることだろう。だがその評価ですら、見方によってはまったく正反対なものとなることも、決して珍しいことではない。
 
他人の論調に流されることなく、一度自分なりの考えをまとめたいものだ。しかし、何を頼りに考えるかが問題だ。テレビのニュースショーの中で放映される識者の討論会なども、限られた時間の中での起承転結が求められる「番組」として演出されていると考えた方が良さそうだし、第一「なぜそうなってしまったのか」という歴史的な経緯の説明が不充分なまま、目先の出来事の評価だけ、それも好き嫌いのレベルで話が進んでしまうきらいもある。「声の大きい人が勝つ」ともいうし、話術の巧みさによって信じ込まされてしまうことも少なくない。池上彰まがいの論を組まれると、思わず納得してしまいたくなる。しかし、それではあまりに安易に過ぎないだろうか。
 
「戦争を回避するためにこそ、集団的自衛権の行使容認が必要だ」というのが安倍政権のスタンスだが、それで良いのだろうか。この世界から戦争はなくならず、現在も進行中の戦争があり、いつかは日本にも戦争の危機と対峙しなくてはならない時が訪れるような気がしてならない。そんな時、自衛隊は役に立つのだろうか。同盟国であるアメリカをあてにできるのだろうか。まずは「平和」に関して日本がたどってきた道をふり返り、その結果として現在どこにどんな不具合が発生し、何が問題になっているかを再確認する必要がありそうだ。
 
問題は重く、複雑である。ちょっと調べたぐらいで結論は出ない。しかし、そういった問題でも「その道の専門家でない人が容易に理解できるように解き明かす」のが新書という書籍の課題と目的だ。本書もそれにもれず、読みやすくわかりやすく編纂されている。著者の小島の構成力と筆致に負うところが大いにありそうだ。

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ペイパーチェイス(白水社)

  • 2014.08.01 Friday
  • 09:02

書評シリーズ第2弾です。紀伊國屋書店の「書評空間 」の継続バージョンと思って書きました。書評空間では「書店で買えるもの」しか対象にできなかったのですが、「打ち出の小槌」でその制約はありません! ちょっと古いが、面白い本です。中古品はア●ゾンに多数出品されており、簡単に手に入ります。
 

今まで書き溜めてきたものと同じ「である調」なので少々雰囲気が異なりますが、ご寛容下さい。
 



ナイジェル・ルイス『ペイパーチェイス』(中野圭二訳、白水社、1986
 


集団的自衛権行使に関する話題が巷を騒がせている。「戦争になっても自らは何もできず、同盟国の支援を期待する」という状況は問題だとしても、「戦争に巻き込まれないための抑止力である」という政府の説明を100%信じている人はあまり多くなさそうだ。「ひとたび戦争になったが最後、歯止めははずれるに違いない」という心配の方がずっと大きいように感じる。

 

私自身も戦争は体験していないが、ヨーロッパで生活していた頃に勃発した湾岸戦争の影響、旧ユーゴスラヴィアをめぐる戦渦、そしてベルリンの壁の崩壊によって象徴される東西の対立の消滅によって引き起こされたさまざまな変化は、身を以て体験した。私が住んでいたウィーン(オーストリア)はユーゴスラヴィアと国境を接しており、東側諸国の人々が西側に流入する際の代表的な入口のひとつだったのだ。

 

戦争は無秩序をもたらす。第二次世界大戦の際に他国を蹂躙しようとした国々の横暴は、我が国の行為も含め、身勝手そのものだったと言えるだろう。またヒトラー率いるドイツがヨーロッパの列国を次々と占領し、略奪した至宝や文化遺産の数は計り知れない。そのドイツも劣勢になってからは各地が空爆されるようになり、その戦渦から守るため、多くの資料や文化遺産が各地に疎開された。本書はそうした希有な運命に翻弄された文化遺産をめぐるノンフィクションだ。話は過去のモーツァルトやベートーヴェンその他の大作曲家たちの貴重な自筆譜を軸に展開される。ベルリンからポーランドに移動された、「グリュッサウの楽譜」というキーワードで呼ばれるコレクションである。そこにはモーツァルトのオペラ『魔笛』やベートーヴェンの『第九交響曲』の楽譜も含まれていた。

 

戦争の最中に木箱に詰められて搬出された品々は、その量もさることながら、何がどこに移動された、というリストさえもが不充分な場合が多い。保管場所も人里離れた城の中や修道院の祭壇の裏など、なるべく人目につきにくいところが選ばれた。疎開先が戦災に遭い、焼失してしまったものも数知れないが、疎開場所情報の伝承が曖昧なために探索できなくなってしまったものも数多い。個人が違法に秘匿したものも多々あるだろう。

 

こうしたかけがえのない、金銭には換算できないような文化遺産の所有権が最終的にどの国にあるのか、誰がどのような権限でそれらを管理するのか、所在は明らかになっても、それが果たして公開されるのかということは、戦後処理をめぐる複雑な政治状況の下、解決の糸口がつかめない膠着状態に陥ってしまうケースが散見された。これらを調査し、発見、そして公開へと至る道のりは険しかった。その経緯は本書に詳しいが、話はなかなか思うように展開せず、じらされる。しかしそれが戦後の現実であり、実態だったのだ。

 

第二次世界大戦後の世界は「西側」と「東側」に分断された。このふたつの陣営の力比べだった「冷戦」はすでに過去のものとなり、一世を風靡したジェームス・ボンドの「007シリーズ」の映画も色褪せてしまった。今の学生たちにはとっては、共産圏の象徴だった「ソ連の存在」そのものが、すでに実感できないものになってしまったようだ。ましてや「東側へ入国する際の国境の陰鬱さ」「東側諸国の貧しさ」などは、紙の上での絵空事となりつつある。これは当時「東欧諸国」と呼ばれていた国々で生まれた若者でも同様だ。「両親からそういう話を聞きました」という世代が増えている。今の若者にとっては臨場感に乏しい本かも知れないが、「昭和生まれ」の世代にとっては、当時の社会情勢を回顧できる貴重なドキュメンタリーだろう。

旧東ドイツへの国境(1980年代。かやにかパパ撮影)


東西の対立が消滅して「東側」が開かれた今、失われた文化遺産の状況はどのように変化したのだろう。その後「再発見」された資料も数多く出現している。それでもまだ見つからないまま、どこかに秘匿され続けているものも、あるいは誰も気づかないまま埋もれてしまっているものも、まだまだ存在しているに違いない…。



 

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ショパンを嗜(たしな)む(音楽之友社)

  • 2014.06.21 Saturday
  • 10:01

紀伊國屋書店の「書評空間 http://booklog.kinokuniya.co.jp/」の書評メンバーのひとりとして2005年より投稿を続けてきましたが、書店の方針で現在は閲覧のみで更新は休止になっています。

「ちりも積もれば山となる」とは良く言ったもので、書評のために読んだ本は118冊になりました。せっかく身についた読書習慣ですので、印象に残った本の読後感想は、《かやにかパパの打出の小槌》に掲載しておこう、と思い立ちました。書評空間での文体を継承した「である調」なため違和感があるかも知れませんが、ご寛容下さい。


 


ショパンを嗜む.jpg


恥ずかしながら、平野啓一郎の作品を読むのはこれが初めてだ。平野は1999年、京都大学法学部在学中に『日蝕』によって芥川賞を受賞している。その当時は最年少での受賞だった。

その後2002年に『葬送』という長編小説を上梓、現在は4分冊の新潮文庫として入手可能となっている。「ピアノの詩人」と称され、日本でもファンの多いポーランドの作曲家ショパンと、その友人で画家のドラクロアを軸にした小説だ。舞台はパリ。平野が得意とするフランスの情景である。

もちろんこれは小説で、史実の解明を追求した伝記ではない。司馬遼太郎による歴史小説のようなとらえ方をすれば良いだろう。著者の脳裏で練られた登場人物の描写がとても生き生きとしており、読者の心中にはつい「すべてそうであったに違いない」という確信が芽生えてしまう。

この長編が構想された際に作られた取材ノートの内容が1冊の本として、昨年末に出版された。もともとは『音楽の友』というクラシック音楽系の月刊誌に2009年から2010年にかけて連載された記事を集約したものである。

ショパンに関してはすでに多くの研究書が刊行されている。音楽の専門家が多くの労力と時間を費やしてまとめた成果には大きな価値があり、現代におけるショパン受容において大きな役割を担っている。さまざまなところに見解の違いはあるが、それが学問というものだろう。新しい知見に触れることにも、スリリングな興味を覚える。

平野の取材もこうした史実を踏まえてであることは当然だが、小説のためとなれば切り口が異なる。学問としてはどうでも良いことでも、文学作品を構築するためには欠かせないディテールがあるに違いないことは、想像に難くない。ショパンの日常の様子、はたまたどのぐらいのレッスン代をとっていたか、などの情報に触れることによって、私生活をのぞき見るような楽しみ方ができる。

ショパンは亡命先のパリで何回も住居を引っ越している。学問としてはその住所がきちんとわかり、そこでどの作品が創作されたかが確定できれば良いのだろうが、小説家にとっては違うのだ。たとえばポーランドからパリに来たばかりでまだ弱冠21才だったショパンは、ある建物の5階から別の建物の2階へ移転したのだが、

部屋が5階から2階になって、上がり下がりが楽になったというのは、一見、大した話でもないようだが、当時、彼の重要な収入源となりつつあった、一回二十フラン、一日五回で百フランという、ブルジョワの夫人や娘のレッスンのためには、決して蔑ろ(ないがしろ)に出来ない意味を持っていた。(p.23)

という考察には「なるほど」と思わせるものがある。 当時のフランの価値に関しても言及されている。それによると、ショパンのレッスンは1回2万円ほど、という計算になる。これでショパンのレッスンを受けられるのであれば、とてもお得な値段のように思えるが、当時は「高い」という評判だったようだ。パリではまだ駆け出しの若者だったショパンである。しかし逆に「高い」ところに、価値があったのだろう。これによって日銭10万円を稼ぎ出すわけで、決してあなどれない額である。毎月10日間働くだけで、かなり裕福な生活ができたに違いない。

こんなこと、あんなこと、家族のこと、また一般の伝記では語られないような脇役の人物に関することなど、「へえぇ」と感心するような情報がたくさん紹介されている。もっと身近にショパンを感じるためのコンパニオンとして、いかがだろうか。

 
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