先月、中高時代の仲間5名が集まって、都内でウォーキングを楽しみました。
集合は京王線柴崎駅北口。とりあえずのゴールは中央線の武蔵小金井駅です。
距離にして12km程度、歩数に換算すると2万歩超となります。
「野川」の川沿いを歩き(土の上と草の上なのでフカフカして快適!)、
ついでに小金井市の滄浪泉園も訪問しました。
天候は快適。暑からず寒からず、晴れていましたが日差しは柔らかでした。
のどかな道をトコトコ歩きました。
都心から1時間かからない距離なのに、こんな場所があるんですよ。
私が通った中高は男子校でした。
普通校で、先日卒業50周年を祝ったばかりです。
平たく言えば「退職後にひまこいてるお爺さんの集まり」ということ。
「そろそろ健康には気をつけないとなあ」と心の底から実感する世代です。
「歩く」は健康維持のための基本。
みな普段から鍛えているようで、健脚です。
体調に多少の問題を抱えていようとも、トコトコ無心に歩きます。
ポール(杖ではないっ)を使うとすごく楽です。
そんな中、私はウォーキングの初心者。
一気に10キロ以上歩いた記憶は、もうはるか昔のこととなりました。
しばしば腰を痛めるので「何とかしなければ」と自己流にトレーニングしても
つい頑張りすぎて逆効果。一旦筋肉を痛めると、その後が続きません。
いかん!
と痛感し、以前筋トレでお世話になったトレーナーのところに駆け込み、
心機一転、少しずつですが身体のためになる運動を再開する決心を。
以前とは違うメニューを組んでもらい、中心はストレッチ。
その一環として歩くことにも挑戦し、できれば習慣づけたい、と思っているのです。
実は一度こっそりネットで見つけた「インターバルウォーキング」なるものも試してみました。
3分間懸命に歩き、その後3分間ダラダラ歩き──このセットを5回こなします。
全部やってもたった30分ですが、やっぱり初回に頑張りすぎ、
しばらくお休みを余儀なくされるはめに…。
その代替としてHIIT(High-Intensity Interval Training)を推奨してもらいました。
タバタ式トレーニング(←本気でやるとマジきつい、本来上級者向けのやつ)に似ていますが、
強度を自由にアレンジできる運動です。
要するに「高負荷」と「低負荷」の運動を繰り返すこと。
心拍数がめっちゃあがります。
並行して勧められたのは、ビタミンB、C、プロテイン、ココナッツ由来のMCTオイルなどの摂取。
でも、サプリメントってはまっちゃうとお金がかかる。
年金生活者には「ひかえめ」がモットーです。
とりあえず、甘いものは少し我慢。糖質よりも蛋白質優先。
でも極端な糖質カットはしません。
──などなど、楽しみながら少しずつ試行錯誤しています。
* * * * * * * * * *
そんな中で参加した久しぶりの長距離ウォーク、挫折せずに完遂できました。
翌日、翌々日も極度の筋肉痛に襲われることなく、無事でした。
歩くことが表向きの目的だったのですが、お約束は「事後の反省会」。
じつはこれが、すごく素敵な会なのです。
一緒に歩いた仲間たち、現役の頃は立派な業績を築きあげてきた人たちです。
そんな友人たちとの気楽な会話は、とても刺激的。
「へ〜」「そうなんだ」「そうだったのか」という興奮が次々と押し寄せてきます。
たとえば今東京ではどんどん都市開発が行われ、次々と高層ビルが建てられています。
働き方も変わり、人口も減少傾向にあるのに、なぜこんなにオフィススペースが必要なのか、と不審に思われるぐらい、開発の勢いが止まりません。
その結果、都心の一等地なのにテナントも思うように集らず、
閑散としている商用フロアも散見されます。
「どこかが不自然、歯止めがきいていない」と思う人もいるし、
「経済のことを考えるとこれもあり」という意見もあり、
そういった意見が渾然と林立していることが、
今日本がすっきり前進できないひとつの要因になっているのかも。
首都直下型の地震、あるいはそれに類するような大地震は近い将来必ず来るでしょう。
それは明日かもしれません。
地震の規模にもよりますが、建造物への壊滅的な被害は避けられません。
そんな時のために、大震災にも耐えうる基準の建物を今のうちに作っておかなければ、
古い建物が崩れてしまったときにどうしようもなくなるだろうことは想像できます。
何が、どういう方向に進むのが正しいのかはわかりません。
そんなさまざまな見方があることに気づかせてくれる友人たちの存在は、私にとっての宝物です。
私自身は音楽の道に進みましたが、なまじ音楽のみにとらわれず、
音楽以外のジャンルの友人をたくさん持てて良かったな、と
心の底から嬉しく思う今日この頃。
老後の雑談に花が咲く、という感じです〜。
そんなことを居酒屋でワイワイ語れる日本ってつくづく平和だな、と思います。
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今年の5月28日に東京で開催したファイナルリサイタルのビデオディスクが完成間近です。
試聴サイトも準備しました。
音源と映像の編集は完了したので、これからジャケットのデザインにはいります。
ディスクは基本ブルーレイですが、DVDも準備します。
発売は年末。11月〜12月ごろになると思います。
テレビで見る場合はブルーレイディスクの方が画質がずっときれいです。
ただし、古〜いテレビやプレイヤーの場合は要確認。
パソコンで見る場合はDVDの方が便利です。
音質はどちらもほぼ同じです。
その差は聴いただけではわかりません。
ここまで事が運んだので、ディスクの先行予約の案内葉書を準備しました。
かなりの量になりましたが、午前中印刷、午後から住所ラベル貼り。
何とか1日で作業を完遂できました!
以下が案内の文面です。
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ビデオディスクが完成しました!
今年5月28日に東京で開催したファイナルピアノリサイタルのブルーレイディスクです。アンコール曲も含めたすべてを収録。私にとっても人生の軌跡を記録する大切な1枚となりました。
年末から販売を開始しますが、先行してご予約いただければ嬉しく思います。
価格は10月31日までの先行予約特価(送料込み)で¥4,600(定価¥4,800+送料)です。
ブルーレイ(高画質なのでおすすめ)では視聴できないお客さまにはDVDディスク(¥3,800)を準備いたしますので、ご予約の際にご指定ください。
お名前、御住所、連絡先、そして枚数を以下までお知らせください。お支払いは商品到着後。振込口座情報は商品に添えてお送りします。
メール:imai■atwien.com ←クリックするとメール画面が出るはずです!
24時間対応ファックス:03-3951-0846
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私の生涯最後のソロアルバムです。
ご注文を心からお待ちしています。
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早いもので
これを最終回にしよう
と意を決して開催したリサイタルから3ヶ月が過ぎました。
あの時はまだ夏前だったのに、もう秋が訪れようとしています。
コンサート評が音楽月刊誌に掲載されました。
奥がはな、右がだい
全文引用は著作権違反なのかも。
出典を明示しますので、どうかお許し下さい。
長らくウィーンを拠点とし、世界を見渡してもウィーンの香りを表現できる数少ないピアニストの一人である今井が、今回をもってステージから去るという。技量はあり、今井の演奏で聴きたい曲はたくさんあり、これで最後とは残念至極。しかし本人の意志は固く、「長く居たからこそ表現できるウィーン独特の響き。自信を持ってお聴かせできる曲」というピアノ・ソナタを2曲。「幻想」のタイトルを持つ「第18番」では、開始からドイツ語の香り。それもドイツ人ではなくオーストリア人の発音で、第1楽章のカンタービレの美しいこと。続くアンダンテもメヌエットも、これぞ!というリズムとテンポ。ドイツ語圏ならではの“幻想”の世界に酔い、終楽章は次の曲へのバトンのよう。そして最後の「第21番」。脱力の力学からの豊かな響きには、研磨蓄積されてきた音楽哲学。と同時に進行する音列では、ときおり少年の純粋さ。深くとられたフレーズや(?)、歌曲を思わせる旋律(?)、スケルツォにはウィーン人のユーモアがあり(?)、最後は軽快に駆け抜ける(?)。今井の10指の独立性は見事なもので、シューベルトの天才ぶりを遺憾なく弾き示した。別れの淋しさより、ただただDanke!である。(上田弘子、音楽の友9月号、演奏会批評 p.7、音楽之友社、2023)
今井顕の最後のリサイタルは、自身の編曲による《G線上のアリア》で、光挿すように爽やかな響きで幕を明けた。メインは、今井がこれまで大切に弾き続けてきたシューベルトの2つのソナタである。前半は《第18番「幻想」》。柔らかに響く第1楽章の和声は繊細な変化を聴かせつつも、徒(いたずら)に感傷的になることはなく、その清々しさが逆説的に聴くものの心を打つ。第2楽章は旋律の大らかな歌唱性が際立ち、主題は戻るたびに仄かな明るさを宿した。和音の重さ・軽さの妙が冴える第3楽章は、中間部の幻想的かつ清朗な響きも印象深かった。歌と踊りのチャーミングな性格を持つ第4楽章は、転調に伴う緊張感や、声部の増幅がもたらす複雑な響きも聴かせた。
後半は《第21番》。シューベルトの最後のソナタということもあり、第1楽章は重々しい演奏も多々聴かれるが、今井は跳躍がもたらすエネルギーや、フレーズ感の間合いこそ重視するが、決して抑圧的でシリアスな音楽にはせず、自然かつ優美な表情を持たせた。今井の音楽は時に微笑み、時に真顔となり、感情の沸点と諦念とが同時に訪れるような多義的瞬間もあった。第2楽章の重々しい足取りのリズムも、エレガントな暗さを帯びるが重すぎない。終楽章はダイナミクスの変化が推進力を漲らせ、やはり主題は顔を出すたびに自由さと軽やかさが増す。一方で短調の和音はただならぬ気迫を帯びた。Prestoのコーダの勢いと眩い響きは、一人の芸術家の最高に輝かしく、華々しく、気品ある締めくくりそのものであった。(飯田有抄、ムジカノーヴァ8月号 p.62、音楽之友社、2023)
ひとつ目の上田さんが書いてくださった批評のなかに
開始からドイツ語の香り。それもドイツ人ではなくオーストリア人の発音で…
というくだりがあります。
実は私がデビューして間もない頃(1982年ですから40年前のことです)、故藤田晴子先生に
「ドイツ語の発音」の演奏
というタイトルの批評をいただいたことを思い出しました。
当時私は28歳。
ウィーン国立音大で恩師スコダのアシスタントとして教鞭を執り始めたころでした。
その頃はこれがどういう意味なのか本心よくわかりませんでした。
「そうか、これ、ほめてもらったんだよな」という感じ。
またその頃の私は
ウィーン風
と評されることに人知れぬ違和感と反発を感じていたのです。
今になってみればすなおに「これ、ほめ言葉だよな」と納得できるのですが、
当時は「ウィーン風」と言われると、何となく軽んじられているように思っていました。
ウィーン風とは:
おしゃれではあるが表面的で薄っぺらい、ちょっといいかげんで詰めが甘い
その時点でウィーンとのつきあいは10年以上になっており、
いつわらない実感でした。
しかし謙虚になってみれば、私は自分の半生をかけてこうした
現地の感覚
での音楽を目指していたことになります。
そして今では
「ドイツ語」「ウィーンなまり」
といわれることに誇りとプライドを感じられるようになりました。
演奏の世界では「個性」の問題が取り沙汰されることが少なくありません。
私自身が考える個性は、その人の
しゃべり方
なのだと思います。
声の高さ、大きさ、速さ、男女差、そしてしゃべり方。
しゃべり方とは、単純には「方言」「お国言葉」のことです。
日本語は日本語でも、地方によって抑揚が違います。
これがかけがえのない魅力。すばらしいチャームポイントじゃないですか。
でもしゃべり方教室ではNHKのアナウンサーのような発声・発音が求められ、
音楽の学習現場もこうした「平均的な」表現にかたよりがちです。
わかりやすいけれど、没個性的。皆と同じ。もったいないです。
先日のリサイタルは
今までで一番「自分のことば」で表現できた
と納得できたので、晴れて公開演奏から卒業できたのかも知れません。
めでたし。嬉しいです。
追伸:ファイナルリサイタルのDVD編集が完了しました!
発売予定などの詳細はまた改めて。もうしばらくかかりそうです。
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■はじめに
2023年5月28日、自分で「これが最後」と決めた演奏会が完了しました。
今まで長きにわたり私の演奏活動を応援、そして御支援くださった皆様、
ほんとうにどうもありがとうございました。
あらためて心から御礼申し上げます。
会場はほぼ満席でした。
今の私は「やりきった」という気持ちで満たされています。
チャレンジしてよかったです。
ファイナル、と決めたことも後悔していません。
せっかくなのでコンサートはDVDとして残しておこうと思い、
その準備としての音源チェックを済ませたところです。
終演後3週間たって、ようやく自分の演奏をふりかえる気持ちになれました。
「何でもっと落ち着いて弾けなかったんか、ボケー」
「こんなところでやらかすなんて、トーシロー同然じゃん」
など、いろいろ反省するとことはありますが、
すなおに「今、これ以上の演奏はできないな」とも感じています。
「へ〜、この程度の演奏でもう限界なんですか」
と言われれば、返せる言葉はありません。
「せっかくここまで来たのだから、これからが正念場。楽ではない。厳しいからこそ芸術なのだ。これから、という時にそこから逃げるのか、がっかりしたよ」
といった感想もありそうに思います。
■最終回に至る軌跡
今回の「ファイナル」をやってみるまで、
終演後の自分の気持ちがどうなるかまったく予測できませんでした。
アスリートの世界に置き換えればわかりやすいと思います。
「この大会を最後に、引退します!」
と宣言して最後の闘いに挑むとします。
実力、実績としてはメダル圏内、表彰台に上がれる公算が大きくても、
運に見はなされて予選落ちするかも知れません。
私が今感じている「やりきった」という思いを手にできるか、
「残念、もう一度チャレンジして自分にできる限界に再挑戦してみたい」
と感じるのかは、結果次第です。
そしてその結果は天から与えられるもので、
自分の思い通りにコントロールできるものではありません。
- - - -
私が音楽家として成長してきた経緯と環境はそれこそ「尋常ではない」もので、
節々では大きなチャンスにも恵まれてきました。
そのきっかけをつくり、その後の自立まで私を支えてくれた両親には感謝しています。
昨今の演奏家としての資質として、
「人並み以上に卓越した運動能力」
が必要不可欠な要素となりました。
私は要領だけは良かったものの、ピアニスト(≒アスリート)としては、
のび太ほどではないにしても、鉄棒の逆上がりもできないどんくさい子供でした。
その後指導者に恵まれ、運にも恵まれ、周囲から見ればまたとない教育を享受してきましたが、
こと「指の敏捷さと器用さ」においては、いまだに底知れぬ劣等感を持っているのです…。
もちろん「究極のフィンガーテクニックと音楽表現」が指の速度だけではないのは重々承知していますが、運動能力不足が私の拭い去れないコンプレックスであることは隠しようもありません。
「ピアニスト≒アスリート」の視点からは、私にも「晴れの大会での予選落ち」の可能性はあったものの、今回は嬉しいことに表彰台に登れたようです。
金メダルではありませんでしたが、銀メダルぐらいでしょうか。
もっとできたかも知れないが、チャレンジして良かった。
今の自分にできることはやりつくした
という感じです。
これをもって演奏活動から引退するにあたり、未練と後悔は微塵もありません。
私を含めて演奏家は、コンサート終了後になってほぼ例外なく
「あそこはもう少し念入りに仕上げておくべきだった」
「もう少し練習時間があったらよかったのに」
と悔やむものですが、今回だけは
「事前にやるべきことはやりつくした」
という心境でステージに立つことができました。
スポーツ界で言うところの「ゾーン」にこそ入れなかったものの、
あがる、(悪い意味での)緊張する、というメンタルの呪縛はほとんど感じずに、
自分を見つめながら演奏できたと思っています。
■家族のこと
私が社会人として自立してからの演奏活動を支えてくれた最大のサポーターは私の妻です。
彼女自身もウィーンでピアノを極めた音楽家ですが、
結婚以来、夫である私のサポートに専念してくれました。
私にとっては一番辛辣な批評家で、ソロリサイタルの期日が近づいてくると彼女の前で一通り通し演奏をする(させていただく)のが、避けることのできない儀式のひとつでした。
夫の演奏をほめるなどは想定外、私にとっては「正座して耐えなければならない」ような苦行で、
いつも心にグサグサ刺さるようなことしか言ってもらえません。
そういった指摘のひとつに「音がきたない」というコメントがありました。
温厚な聴衆の方々には
「今井先生の音はとてもきれいで、そこが大好きです」
と言っていただくことが多かったので、自分も何となくその気になっていたのですが、
面と向かって「あんたの音はきたない、中でもフォルテは最悪」などと言われると、
気心の知れている相手とは言え、正直ムカつきます。
以前は
「うっせーな、世の中にもっと粗い音のピアニストはごまんといるさ、ほっといてくれ」
と、妻からのグサグサの真意を直視することなく、なかば逃避していました。
しかし最終回と決めた今回ばかりはその指摘に正面から向き合い、
自分の音と演奏をシビアに、客観的に評価してみたのです。
具体的には「自分の演奏を録音し、それに真摯に耳を傾ける」ということ。
「自分が自分にとって一番厳しい教師になる」わけです。
もちろんこれまでもその方向で自分の演奏は磨いてきたつもりでしたが、さらに徹底的に。
私情を極力排除して自分の演奏を聴いたところ、原因が明らかになりました。
妻の言い分に間違いはなかったのです。
詳細は省略しますが、欠けていた要素に気づきました。
生徒たちには日常のレッスンで口を酸っぱくして言い続けてきた課題ですが、
それを言った本人(=私)は安易に「できているつもり、やっているつもり」だけで、
自分を甘やかしていたことに気づけたのです。
今回のプログラムは4月23日に宇都宮、5月19日に大阪、そして5月28日が東京での公演だったのですが、回を追うにしたがって自分の演奏が劇的に変化していきました。
初回の宇都宮での場を与えて下さった須賀先生、ごめんなさい。
でも決して手を抜いたのではなく、あれはあれで精一杯の演奏だったのです。
そして、今回「きたない音」に関する妻からのクレームはありませんでした。
めでたし、めでたし。
■「聴く」能力
木で鼻をくくるような表現かも知れませんが
「美しい音を出すための演奏テクニックはない」
というのが、今回の私の学びでした。
いやいやご心配なく、実際のノウハウは存在しますし、巷で開講されている
「こうすれば美しい音で演奏できます」という講座は、すべて嘘ではありません。
でも、キモは「自分の耳で聴き分けられるか」にある、と思うに至りました。
これなしでは、すべてが机上の空論に過ぎません。
演奏の際の「やっているつもり感」は音づくりにとって手ごわい障壁です。
コンサートに限ったことではなく、レッスン時、そして自宅での練習中でも同じです。
「こう響いているはずだ」という思い込みはほとんどの場合、
脳内で自己流に形成されている理想の音響であって、
実際に楽器から生まれているリアルな音響とは乖離しています。
自分の録音を聴くときに、この思い込みをリセットしてリアルに聴けるかが
上達へのキーポイントなのです。
若い頃私自身も恩師に言われましたが「自分の音を聴く」ことは口で言うほど簡単ではなく、
多くの実践経験とトレーニングによってのみ身につく能力なのです。
今回、これを痛感しました。
■避けられない「老い」
この「聴く」という能力も、
今回私が演奏活動にひと区切りつけようと思った背景にある要因のひとつです。
「今井先生の音は美しい」と言っていただけると、すなおに嬉しいです。
でも、ピアノの音は弾く人によって多少の差はあれど、やっぱりピアノの音のままです。
ヤマハ、カワイの音とかスタインウェイ、あるいはベーゼンドルファーの音とか言うものの、
基本的には誰が弾いても誰が聞いても「ピアノの音」であることに違いはありません。
人の声のような差はないのです。
人声だったら男女差のみならず、個人差(=個性)は強烈です。
ピアノの音色に弾き手による差が生じるとすれば、それは
ピアノのハンマーが弦を叩くことによって生じるピアノの基音の響きではなく、
そこから派生する倍音配分の差にその秘密が隠されているのでは?
と私なりに想像しています。
それも、単音ではなく和音のバランスがポイントです。
それだけでなく、骨伝導の問題(鳴っているのは楽器だけではなく、奏者の身体も共鳴している、という理論)も無視できないでしょう。
「倍音を聴いて判別する」とは、まさに聴覚の能力の問題です。
理論やテクニックではなく、感性・感覚です。
訓練にもよりますが、加齢によって避けられない身体的な衰えは如何ともし難く、
正直に告白すると、私自身この年齢(来年70歳)になって、
若いときのようには倍音を聞き取れなくなりました。
特に高い音が聞こえません(さすがに鍵盤を押して出る基音は全部わかりますよ〜)。
若い頃はソルフェージュの先生が不作為な不協和音をピアノで弾いて
「はい、何の音か答えなさい」
と問われた時、それがどんな和音でも、何個重なっていようとも、造作なく即答できました。
基音とは別個に響いている倍音をピピピピッと瞬時に分析できたのですが(基音はどんなににごっていても、聞こうとさえすれば倍音は常にクリアに浮かびあがって聞こえます)、
今はもう無理です。
ということは、今の自分が「これが一番いい響きだ」と思って創りあげた音でも、
実際に会場に届いている音色とは違っているかも知れないわけです。
こればかりは確かめようがありません。
衰えはまだ軽微だと信じたいですが、他の人にはない音の美しさを求めてきただけに、
これも「そろそろ年貢の納め時が近づいたのかも知れない」と思うに至った理由のひとつです。
日常生活でも次第に子音の判別があいまいになり、
とりわけ電話で相手の名前を認識しづらい、あるいはテレビの音が大きめになりやすい、など、
まさに「正真正銘のジジイ」になりつつあります。
まさに年相応、ですね。あらがってどうなるものではありません。
■ありがとうございます
長くなりました。
今は「へ、練習?」という感じでピアノから距離をおけていますが、
レッスンの仕事もありますので必要最小限の指トレは続行しています。
時間がたてば、またピアノを弾きたくなるかも知れません。
でもその時には筋力も瞬発力も今とは違いますし(たとえ数日でも「何もしない」ことによってもたらされる衰えは想像以上です)、運動機能の現状維持、ましてや向上のためにはとてつもない努力が必要になるでしょう。
その努力──それでもピアノを弾いていることが何よりも嬉しい、というのであれば構いませんが、そうなると日夜ピアノの部屋に籠もりっきりにならざるを得ません。
それを私自身が望むかどうか、太陽の差し込まないピアノスタジオに籠もるのが幸せか、
ピアノと共にある時間を本心楽しめているか、
そしてそうした姿が生活を共にする家族の幸せにも通じるかどうかは、
その時になってみないとわかりません。
今のところは「身体の動くうち、健康なうちにやっておきたい音楽以外の事」が山積みです。
まずはそちらに向きあいはじめています。
■最後に一番大切なご報告を
ファイナルコンサートを終えてから、心なしか日常生活の中で、
誰よりも大切な、妻の笑顔が増えたように感じています!
そして何とリサイタル以降、起床後に夫婦揃ってテレビ画面の前に陣取り、
ユーチューブで提供されている映像に合わせて
ラジオ体操の第1+第2+第3
をやるのが日課になりました。
足元ではワンコ2匹がじゃれあっています。
10分弱で終わりますが、いろんなバージョンがあって楽しいですよ。
老夫婦にとっては適度な運動になりますし、
子供のいない我々にとって嬉しい、幸せなひとときです。
この幸せが少しでも長く続きますように!
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まだ東京のコンサート当日(5月28日)まで一月半もありますが、予想外の展開となり、
おかげさまでほぼ満席の状況となりました。
今後はご購入のご希望をいただいても、ご要望にそうことが適わなくなりました。
大変に心苦しいのですが、どうかご寛容いただきたく存じます。
なお、宇都宮公演(4月23日)と大阪公演(5月19日)はまだ大丈夫です。
東京会場の当日券は必ず準備いたします。
天候その他の状況によってはご来場を断念されるお客さまもおられると思います。
空席が生じたならば、ぜひひとりでも多くの方に聴いていただきたいです。
そこが「全自由席」システムの強み。「当日券、あります」というお約束だけはいたします。
「ほんとうに最後なのですか」
「なぜ最後なのですか」
「最後と言わず、ぜひまた続きを」
という暖かいお心の籠もったお言葉をたくさんいただきました。ありがとうございます。
それにお答えする意味も込めて今のうち、まだ「最後の公演」を実施する前に、
今の私の心境をお伝えしておこうと思います。
前回のブログの時から少し変化しているかも知れません。
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WBC、すごかったですね。最後の大谷選手とトラウト選手の真剣勝負。
武者震いするようなプレッシャーだったことは、本人たち自らが語っています。そして
「まさにこういう勝負を求めていたのだ」
というメッセージが両選手から聞こえてきました。
写真、お借りしました。
そうだ、私が暗に挑もうとしているものもこれか、と思い当たりました。
今回を最後と決めることによって、緊張は格段に高まります。
それに加えて満場のホールでの演奏。
緊張感はさらに極限まで高まります。
「最後」と決めなかったら、
この何ものにも替えがたい緊張感とプレッシャーは得られなかったでしょう。
それに自分はどこまで耐え、何ができるのか──こうした極限のプレッシャーには、
自分がまだピークを保てるうちに立ち向かいたい。
何をもって自分のピークとするかの判断は困難です。
身体能力のピークはすでに越えてしまいました。
逆に音楽的感性のピークはゆるやかながら高まりつつあるようにも感じます。
視力はかなりやばく、聴力はぎりぎりです。演奏に不都合はない、と思いたいですが、
若い時と比較すると、高次倍音の聞きとり能力は確実に衰えています。
「自分に聞こえているように聴衆にも届いているか」は確かめようがありませんが、
少しずつ不安になってきました。
要はバランス。
これ以上先延ばしにすると、さらなる成熟への夢はふくらんでも
握力をはじめとした体力、瞬発力と気力がついていかなくなります。
とりわけ集中力の持続が問題で、「まじでやばい」です。
ユンケルは効かないのかなあ…。
今ならまだ全身全霊を込め、全力でこの課題にチャレンジできます。
自ら自分に課したプレッシャーは「もう二度と得られない」からこそ、
一生の宝物となるに違いありません。
結果はわかりません。自分を信じてしっかり弾ききりたいです。
もし不満が残る結果だったとしても「再チャレンジ、もう一度」に価値はありません。
ただ一度のみ。
それまで悔いのない準備を積み上げ、矢吹ジョーのように燃え尽きてみようと思います。
追伸:東京文化会館は魅力的な建物ですがいかんせん設計理念が古く、とりわけ小ホールの女性用トイレの数が圧倒的に不足しています。休憩時間はなるべく長く、とは思っていますが、ご来場の際はご留意下さい。
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ファイナルピアノリサイタルに向かってすべてが動き始めました。
自分のウェブサイトもようやく整え終わり、一段落。
こちらです↓
「最後」と謳ったコンサートでもあり、いつもより興味を持って下さる方が多く
嬉しいことにチケットも順調に売れ始めました。
東京公演は販売開始後約2週間にして、なんと、すでにホールの半分がうまりました!
かやにかパパが出演するコンサートとしては前代未聞のペースです。
左がはな、右がだい。かわいいです。朝5時に起きちゃうのには閉口しますが…
あとはその日が来るまで、一日、一日と地道な練習を積み重ねていくばかりです。
まずは4月23日の宇都宮公演に向けてがんばります。
その後5月19日には大阪公演、そして5月28日が正真正銘のファイナル、東京公演です。
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少しずつ春の気配が濃くなってきました。
昨年まではあまり気にしていなかったのですが、
今年はどうも花粉症がはっきりと出てきそうな予感がします…。
早朝にでるくしゃみの連発もそのひとつなのだと思われますが、
食事中にも透明な鼻水がタリ〜と流れてくるのが悩みです。
そのまま食べ続けていると
ちょっと〜、食欲失せるから何とかしてっ 鼻かみなさいっ
とトイメンに座しているカヤニカままに叱責されます。
食卓ではともかく、
4〜5月に企画されているコンサートの演奏中に鼻が垂れてくると困るなあ
と心配しているところです。
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閑話休題、新刊の楽譜が届きました。
カール・チェルニーのフーガ集です。
今月2日に春秋社より刊行されたばかり、まだ刷り上がったばかりの楽譜です。
カール・チェルニー『12の前奏曲とフーガ──フーガ演奏教本 作品400』(春秋社)
チェルニーと言えばピアノ教室の生徒たちが忌み嫌う「練習曲」の作曲家。
「チェルニーの練習曲をやらされたことがない」という人はほぼ皆無と思われます。
チェルニーは膨大な数の練習曲を残していますが、明晰に構築された秀逸な教材です。
音楽的にも特に悪いところはないのですが、楽しくない。幸せになれないのです。
この試練に耐えた者にこそ栄光が訪れる
といった、スポ根、スパルタ的な傾向があるのかも。
しか〜し。チェルニーは何もイヂワル目的で練習曲を量産したわけではなく、
しっかりとした手ごたえのある芸術作品も創作しています。
何と言っても、知る人ぞ知るベートーヴェンに師事していた人ですからね。
そしてかの技巧派、フランツ・リストの先生でもありました。
じつは、すごい人だったのです。
《演奏教本》とは銘打ってあるものの、なかなかの力作のようにお見受けしました。
私も初めて出会った曲ですし、おそらく日本初登場だと思います。
フーガというジャンルの作品は、初見演奏に慣れた者にも手ごわい存在です。
弾けるようになるまでに結構手間ひまがかかります。
というわけで、この曲集に関しては、すでに音源(世界初録音!)も準備されています!
https://diskunion.net/classic/ct/detail/1008579807
「人の弾かない名作を弾いてみたい」という方におすすめです。
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隠れた名曲と言えば、フリードリヒ・クーラウという作曲家も忘れてはいけません。
ベートーヴェンと同じ時代に活躍した人です。
フルーティストにとってはスタンダードのレパートリーの作家ですが、
ピアニストには「ソナチネの作家」でしかない、かわいそうな存在です。
ところがクーラウはソナチネ以外にもピアノのソロ曲をたくさん創作し、
こんなにたくさんの楽譜が出版されているのです。
ソナタ、変奏曲、小品集などなど何でもござれ。
発行元はインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会。こちらをご覧下さい。
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ことのついでに最近読んだ本のうち、特に感銘を受けたものを2冊ご紹介しておきましょう。
1冊めはこれ。ちょっとお堅い学術書です。
M.A.ボンズ『ベートーヴェン症候群──音楽を自伝として聴く』(堀朋平・西田紘子訳、春秋社)
私たちはクラシックの作品を聴くと、そこから作曲家の人生や精神性を聴きとろうとします。
演奏家としても、その表現をめざして切磋琢磨するのが大きな課題です。
そこがおもしろいところではあるのですが、
そうしたアプローチはベートーヴェン以降になって発生したものなのだそうです。
「芸術作品の理解度は、演奏家と聴衆の認知力に委ねられている」というわけ。
それまで、つまりハイドンやモーツァルトの場合はそうではなく
聴衆が理解できない原因は、作曲家にある
というスタンスだったということです。
お笑い芸人が必死でコントを作っても、客が笑わないのは芸人がわるい、
という状況と似ていますね。
当初、作曲家は芸術家ではなく、職人だったのです。
そんなことが述べられている、どちらかというと専門家向けの固い本ではありますが…。
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そうではなくて、娯楽としてもどっぷり楽しめちゃうのは、こちら。
中田朋樹『彷徨──フランツ・シューベルトの生涯』(鳥影社)
シューベルトの人生を描いた小説です。何と941ページの大著。
手に持つと重いです。厚くて枕にできます。
でも、あまりにおもしろくて私は思わず一気読みしてしまいました。
100%ノンフィクションの伝記ではないのですが、
司馬遼太郎の歴史小説とおなじようなもの、と考えてください。
さもありなん、という生き生きとした描写がたまりません。
でてくるウィーンのストリートをグーグルマップで検索すると、ちゃんと見つかります。
ウィーンに行ったことのある人にとっては
あそこか〜。うわ〜、たまらん
という感激も。
ぜったいもう一度行きたくなります。
なお、かなり濃厚な性描写も含まれていますので、
《即興曲》や《楽興の時》などを練習中の若者に与える前に、
保護者や指導者による事前の内容確認が必須です!
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近隣のどこぞの国では今が正月だそうです。
が、わが国ではすでに過ぎ去ったこと。
明けまして… とはもう書けません。
寒中お見舞い申し上げます
今年もどうかよろしくおつきあいください。
ボス爺の小太郎を先頭に行進するだいとはな
今年最大のイベントは何と言っても5月28日のリサイタル。
チラシは現在作成中です。
もうすぐ完成しますので、詳細はその時にまたあらためて。
気にかかるのは、今後のコロナの扱いに関する国の方針です。
入場規制が強化されることにはならないでしょうが、身勝手なコロナウィルスの立ち居振る舞い、
何がどうなるか予断は許せません。
コンサート終了後、以前のようにロビーで皆様にお会いできるのであれば嬉しいのですが…。
ところで、今は河口湖近くのいつもの宿にいます。
4泊5日のミニバカンスですが、それも今日で終わり。
すぐ目の前に見える富士山の山腹には、何と、農鳥 が出現しています。
本来は春先、田植えの頃になってから見えるはずなのですがね…
──と思ったら、昨晩から極寒波襲来。
日本各地で事故や障害も発生しているようです。
ちなみにご当地の今朝の温度はこれ。
地球が風邪をひいてますね。
個人の力では何ともできませんが、心配です。
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生まれて初めて生で見たボクシングの試合。それも、リングサイドの1列目!
グローブをつけているとはいえ、人が人をボカスカ殴る音や「シュッ」という息はもちろん、
2メートル前のロープ際に追いつめられながらパンチに耐える選手の背中が目前にあるのは
すごい迫力です。
テレビとはぜ〜んぜん違います。
行ったのは B-UP という団体のイベント@代官山でした。
元プロ、アマ問わず誰でも年齢制限なしで参加できる、というものですが、
☆完全プロボクシング試合形式
☆2分3ラウンド
☆ジャッジ3名の採点集計による勝敗
☆プロボクシング公式リング使用
☆リングアナウンサーによる名前コール
☆好きな曲を流しながらの入場
に加え、おへそがかわいいラウンドガールもいましたよ〜。
つまり、技量と経験はともかく、ボクシングにはまったからには
《世界タイトルマッチと同じような雰囲気の試合を体験できる》
という、どちらかというとアマチュアボクサー向けのイベントです。
始めて1年少々、という人や、まだ16歳の若者、あるいは還暦を越えたお爺さん、
本職は弁護士のおじさんとか、現職、前歴はいろいろです。
こうしたいわゆる「ボクシング好き」にならんで、もちろん「プロボクサー」もいます。
そんな一人、ヤス君は私のメントレ仲間の爽やかなプロボクサーです(でした、なのかな?)。
今は横浜で大人気の女性専門のジム、GOKIGEN BOXING を経営しています。
筋肉に入ったカットが美しい。鍛え上げてるね!
もう10年以上も試合から離れていたので今回一念発起、
ライトヘビー級タイトルマッチに挑むということなので、応援に行きました。
対戦相手(前チャンピオン)の身体は少しぽっちゃりしてるみたいです…
そして、何と、見事タイトルを3回KOでゲット!
チャンピオンベルトを手にしたのです。
嬉しいなあ。現場でリアルにヤス君の勇姿を見られて何よりでした!
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嬉しいことに、大学院での教え子が大活躍しています。
こんな不況な世の中です。きっと苦労しているに違いありません。
でも、ぜんぜん負けてない。がんばってます。
大学院ではピアノもがんばり
↓
修士論文も立派に書き上げ
↓
よき伴侶を得たと思ったら
↓
青年海外協力隊のピアノ教師としてモルジブに赴任し
↓
調律師がいないために現地のピアノが壊れたまま放置されているのに愕然とし
↓
よし、自分で修理できるよう今から調律師になるんだと発奮し
↓
現在では新宿の目抜き通りで輸入ピアノを中心としたショップを経営している!
という、すごい女性です。
会ってもそんな凄腕には見えません。
でも、たくさんの人からの信頼厚く、
とあるマネージメント会社の業務も請け負い、
ピアノも売るし、音楽を広めることにも余念がありません。
「なんだか、うち、駆け込み寺みたいになっちゃってるんですよね〜」
とぼやいてはいるものの、
みんなから慕われているのをひしひしと感じます。
世間的に言う「起業家タイプ」なんでしょうね。
すごいと思うと同時に
自分が活躍できる場を得られてよかったな
と、心から応援しています。
大学院のレッスンで厳しく教えたことがどのぐらい役立ってるかは別として…。
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さて、ここからが本題。
先日も「社長、忙しいだろうけれど、いるかな?」と立ち寄ったところ、
(ほんとはお店のトイレを借りたかっただけなのですが)
会えました!
ショールームにはスタインウェイのフルコン、Dモデルが2台!
中古です。いろいろなホールや公共施設で長年使われていたものが減価償却完了とともに売りに出された、個人使用とは違うもだとのこと。
状態は万全です。
左側の2台。右のはベヒシュタインのフルコンです。
気になるお値段は1500万円。
新品は3000万円ぐらいだったと思います。
これを「高い」と思うか「お買い得」と思うかは人それぞれですが、
スタインウェイのDで見た目ピカピカだし、きちんと調整済みだし、
正直、すごい掘り出し物だと思います!
とりあえず置く場所があれば、の話ですがね。ピアノはやっぱりデカいです。
フルコンサートモデルとなると、なおさら場所ふさぎ。
私も試弾してみました。
派手ではありませんが、手堅い感じ。
製造番号から見るに、1990年代の楽器です。
いかがでしょう。私としてはチョーお薦めですよ〜!
お店の情報はこちらです。決してあやしい店ではありません:
https://www.imported-piano.com
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あえてウクライナ問題に触れます。
日本国内で現在進行中のさまざまな事案・騒動の報道がかしましく、
ウクライナでの戦争の影が薄くなっています。
何が真実なのか私には判断できませんが、
ネット上に提供されているさまざまな視点からの情報を私なりに整理してみました。
どれも短い動画ではありませんが…。
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■日本を含めた西側諸国では
「ロシアが一方的な悪者でウクライナが被害者だ」
という構図になっており、たとえば以下のようなレポートがそうしたことを補強しています。
「何もかも嘘だった」 国外へ脱出のロシア兵、ウクライナ戦争を批判
■しかしさまざまな情報に触れていると
「本当にそれが真実なのか?」
という疑問がわいてきます。たとえばこれ(約43分)。
I took a LIBERAL, ANTI WAR Protester to see the truth in Donbass, and THIS Happened!
動画の画面にある歯車マークをクリックして「字幕」「自動翻訳」「日本語」と設定することによって、
おおよその内容を追えます。
同じリソースからですが、短いバージョン(約17分)がこちら。
これにはわかりやすい日本語字幕がつけられています。
■2016年にウクライナのドンバス地方で起こったことの記録はこちら(約53分)。
上記の自動翻訳で日本語の字幕を参照することができます。
ロシアが主張する「ネオナチの台頭とそこからの解放」の意味が
少しだけわかるような気がします。
「ロシアが突然ウクライナを侵略した」という単純な話ではないことが想像できますが、
何よりも衝撃的なのは爆撃が行われている、まさにその場にいるような臨場感、
そして現在も戦地と化している市街の様子です。
自分がまだ生まれていなかった第二次世界大戦当時のドキュメンタリーを見るのとは違い、
誰でも旅行に行けば目にする市街地が
こんなに悲惨な様相になってしまうのだ、と心が痛みます。
私自身ウクライナに行ったことはありませんが、
長らく住んでいたウィーンの風景(観光スポットではなく、庶民の日常が根づくエリア)、
あるいは近隣の旧東側諸国の雰囲気と共通しているところも多く、
道路や家屋、そして住居内の調度を見ると
「そうそう、これだ」
と肌で感じるような感覚を覚えます。
Donbass - 2016. Documentary Anne-Laure Bonnel
自動翻訳機能(日本語対応)で不完全ながらもフォローできます。
動画画面の歯車マークのところから設定できます。
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報道によって人々の思想がいとも簡単にコントロールされてしまう、
というのは本当に恐ろしい。
ロシアでも、中国でも、また北朝鮮でも、
為政者によって報道への締めつけが意図的に行われていることは周知の事実です。
また、嘘を本物に見せかけるフェイクの技術は日に日に進化しています。
「日本は自由な国だから」
という安易な安心感は捨てて、
「ちょっと待てよ」
と立ち止まるべきではないでしょうか。
テレビ局や新聞各紙の報道の濃淡を見ていると、
現代日本のジャーナリズムの危うさを感じます。
日本政府から、何らかの恣意的アプローチが秘密裡に行われているように思えてなりません。
今のわが国で、さまざまなものが劣化しているように感じるのは私だけでしょうか。
昔の省庁のエリートたちは「日本を背負っていくのは俺たちだ」という気概とともに
もっと緻密に物事を考え、頑固なまでにそれを主張していました。
それによるデメリットも多々ありましたが、責任の所在は今より明確だったと思われます。
でも、人事権が政府に移譲されたのをきっかけに、
「忖度(そんたく)」が横行するようになってしまいましたね。
尊敬に値する政治家への忖度ならば片目ぐらいはつぶれますが、
今の政治家たちのていたらく。とんでもありません。
そういったことを追うのがメシのタネであるべき報道関係者たちも、
以前のほうが今より正義感に満ち満ちていたような気がします。
法科大学院が乱立するようになってから
弁護士をはじめとする法律家たちの質が落ちた、とも言われます。
私の単なる「昔は良かった症候群」なのかもしれません。
それならば、それでいいのです。
でも、若い人たちが希望に胸をふくらませてしっかりと活躍でき、
上昇する意欲が湧く未来になってほしいと心から願っています。
「がんばれば、できるよ!」
と心をこめて励ましてあげられないのが、悲しいです。
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2021年9月5日に千葉は九十九里浜の近くで生を受けた“だい”と“はな”。
犬種はクリサジーク──チェコ原産の、めずらしい小型犬です。
産院に向かう車の中で生まれてしまったので、どちらが先だったか確認できず
果たして兄妹なのか姉弟なのかは不明です。
昨年の12月8日から、かやにかパパとカヤニカままの家族になりました。
わが家では「姉弟」であり、雌のはながにらみをきかせています。
はなは筋肉質で運動神経抜群ですが、だいはちょっとどんくさい。
ソファーに飛び乗るときにも、しばしば恥ずかしい醜態をさらします。
でもいったん外に出かけると状況は一変。
社交性に長けたイケメン、フォトジェニックな牡のだいがリーダーとなって
力関係は「兄妹」に転換するのです。
最新の姿はこちら。かわいいなあ。保護者にとってはたまりません。
体重はそれぞれ2キロをちょっと越えたところです。
もう少し大きくなるものの、2キロ台でおさまってほしいです。
かやにかパパが朝トレのメニューのひとつ、腕立て伏せをしていると
2匹とも背中に飛び乗ってくるのですが、かなりの負荷増になります。
オレンジの首輪がはな、右がだい
生後3ヶ月で来た頃は、まさにパピーそのもの。
トイレトレーニングもたいへんでした。
上がだい、下がはな
でも2匹いると、お互い遊び相手にもなるし、社会性もつくようです。
いまだにじゃれ合っていますが、ほんとに楽しそうです。
ほぼ成犬のサイズに育った今では、不肖かやにかパパもまぜてもらい、
カーペットの上で三つ巴のレスリングを展開しています。
当初は1匹、牡のだいだけをもらおう、という計画だったのですが、
ブリーダーさんのところでかやにかパパが突然「娘ちゃんもほしいよ〜」と言いだし、
急遽2匹の引き取りとなりました。お財布がちと痛かったデス。。。
はじめのうちは
こんなに世話かかるの、いったいどうしてくれるのよっ。
アンタ手伝おうとしないしぃ。
ぼ〜、と立ってるだけじゃダメだっつうの。
とカヤニカままとの摩擦が頻発していましたが(あ、それは今も、です)
今となっては
2匹いてくれてよかったね〜 ほんと、楽しそう!
とまさに私たち夫婦の「かすがい」となってくれています。
あ、今回は登場していませんが、小太郎も健在です。
兄貴分のカーヤと実の母犬のニカを亡くして意気消沈し、
一時は「もうだめか」と心配したのですが
若い子たちに刺激されて、少し活性化しました。
もちろん身体能力では太刀打ちでないし、毎朝の点滴も欠かせませんが、
先住犬としてのプライドを持って、かやにか家に君臨しています。
そして、そのプライドを大切にしてあげるのも、みんなの大切な任務です!
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ようやく東京のホールを予約できました。
来年、2023年5月28日(日)、東京文化会館小ホールです。
コンサートは午後。シューベルトを予定しています。
1979年のデビューリサイタル以来、このすてきなホールを拠点にして歩んできました。
自ら決心し、企画を立て、毎回祈るような気持ちでチケットを売り、そして演奏する。
自身の成長を確認するための、自分にとっては何よりも過酷なステージです。
その積み重ねに、来年で終止符を打とう、と決めました。
一番の理由は、これだけ責任の重い企画を推進する体力と気力が衰えてきたこと。
そして、自分の演奏にゆるみや甘えが生じても、
それを真摯に指摘して下さる方が少なくなってしまったこと。
今後演奏活動を続ければ、おそらくみなさまは暖かく励まして下さると思うのです。
「老齢になってこその円熟の境地」という言葉も、甘い誘惑です。
「まだ若い、芸術家としてはこれからが勝負」と言われれば、容易に反論できません。
でも、それでは何も変わらない、そして変われないと思うのです。
現在活躍中の若いピアニストたちと比較したとき、音楽的な経験とアプローチはともかく、
フィジカルな身体能力がもはや遠く及ばないことは、火を見るより明らかな現実です。
「それを補う老境の悟りと枯れた表現の魅力」には甘えたくありません。
自分をやんわり甘やかしてしまうのは、望むところではないのです。
スポーツの選手と同じです。
まだ惜しまれているうちに、自らの意志で身を処したい。
確かに「今だからできること」もあるに違いありません。
でも、以前はできても今できない──「まだ大丈夫」は禁句です。
実は来年、2023年は妻と私にとって結婚40年目となる節目の年です。
妻は結婚以来の39年間、幼少の頃から育んできた自分の夢を封印して、
私の音楽活動を支えてくれました。
若い頃の「その日暮らし」のような毎日でも、いつも明るい笑顔でごはんを作ってくれました。
喧嘩もたくさんしました。危機もありました。
私のわがままで泣かせてしまったことも数えきれません。
この39年間、妻は私の音楽のためにすべてを捧げ、つくし続けてくれたのです。
そこから解放されたい、と感じている妻がいます。
私も、そうしてあげたい。40年が節目です。
まだ元気で健康なうちに、日々の練習や仕事のしがらみから抜けだして、
一度自由に羽ばたいてみたいのです。
結局満足できないかもしれません。
そういう生活にするとすぐボケる、とも言われます。
単にカッコつけただけで、すべてがたわごとで終わってしまうかも知れません。
でも、試せるのは今が最後。
「練習しなくちゃ」とつぶやき、休暇の旅先にまで練習用鍵盤を持参する生活は
そろそろ終わりにしたい。
その決意を確認するためにも、これからの一年間、自分と真摯に向きあってみたいと思います。
最後にもう一度だけ皆様の拍手を浴びたい、という夢を追いながら、
ラストランの準備にはいります。
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このところ腰の調子がいまひとつです。
3月末に久しぶりにギックリ腰をやって以来、
ずっとすっきりしません。
それも風呂場に座って朝シャンしていたら、それだけでギクッときた、という情けない原因。
以前だったら2週間ぐらいで回復していたのですがね…。
8年前にギックリの連発に見舞われた時期があり、その時には
お〜し、身体をイチから鍛え直してやるっ
と心機一転、意気込んでパーソナルトレーナーを紹介してもらい、
筋トレメニューを組んでもらいました。
松井秀喜の大リーグ時代のトレーナーですから、最強です。
その時の腹筋メニューを、それ以来ずっと続けてはきたのですが、今回はそれもままならず。
やったとしても、おっかなびっくりです。
この年になって心配なのは、足腰が弱ること。
散歩が一番、とは言われますが、推奨される1日8000歩以上、というのはかなりきついです。
思ったより時間がかかるし、天候に左右されるし、これからは暑くなるし⋯。
その代わりに、と思いついたのが、ステップトレーニング。
それもコストをかけずに、ひたすら自宅の階段を登る、というやつです。
私が住んでいる集合住宅は4階建てで、65段の階段があります。
これを登り、エレベータで下り、また登る。
通過したらひとつ、また通過したらもうひとつ…
Spotifyで音楽を聴きながら、無心にステップを刻みます。
心を無にして登り続けます!
昨日は26分かけて1105段登り、152カロリー消費。平均心拍数は107。
3日目にしてはちと無理しすぎました。今日は腰が…。
本末転倒ですね。三日坊主の始まりか?
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モーツァルトの編集作業、少しずつ慣れてきました。作業の手順も決まりつつあります。
現在手がけているのは、世に《トルコ行進曲つき》と言われている有名なイ長調のソナタ。
2014年にモーツァルトの自筆楽譜の一部が偶然に発見され、大騒ぎになった作品です。作曲されてから230余年たってからの発見ですからね、そりゃ大事件。
これです。インターネットで無料でダウンロードできるので便利です。
その自筆譜のファクシミリと、当時モーツァルト自身も出版に関わった初版譜(1784年刊)のコピーが基礎資料。初版譜は印刷原盤の更新に伴って4種類もあり、細部に看過できない齟齬が含まれます。これがモーツァルトの指示によるものか、という判断が世界の音楽学者たちの論点のひとつになっています。
あとは、18世紀に誰かさんがモーツァルトの楽譜を書き写したと思われる筆写譜のコピー(これも最近発見されました)、そして原典版という現代の市販譜(各社版いろいろあります)の内容と、それに付随している校訂報告の内容を、前述の基礎資料と比較チェックしていきます。
微細な差違の評価を紙上の一覧表にまとめてもあまり役立たないので、古くなりつつある「マイ脳みそ」の中で記憶を頼りに整理するのですが、半分「勘」の領域にも踏み込みかけているのが実情です。
要は、資料にある様々な違いに優先順序をつけて絞り込んでいくのですが、
「なぜそういう順序にするのか」というロジックを自分なりに組み立てるのがポイントです。
ううう、複数の資料からの情報が、頭のなかで絡まりそうだ〜。ボケたら、無理。
机上に広げた資料は、その作品が片付くまで出しっぱなし、広げっぱなしです。
そうできる机があったことが幸いでした。
食卓だったら不可能。スペースはあっても、食事のたびに「はい、片付けて」と言われたのでは、せつなすぎます。だからと言って、ふだん使っているデスクは狭すぎるし。
散らかっています。でも何ともできません。
楽譜編集の際に悩むのは
完成した楽譜に表示するバージョンを極力ひとつに絞りこむ
という取捨選択の決断です。別バージョンを小さく並行表記することもありますが、どちらかと言うと例外的。
こんな感じで補足することがあります。
でも、相手は音楽ですから「こっちもいいけど、あっちも捨てがたい」と
甲乙をつけられない場合が多々あります。
科学と違って「割り切れないところ」が芸術の良いところでもあるのですが…。
正解はあるような、ないような。人の好みも影響してきますからね。
モーツァルトさんに電話かメールで直接問い合わせられれば良いのですが、それは夢でしかありません。死後布の袋に詰められて他の人と一緒に共同墓地の穴に投げ込まれたモーツァルトさんの埋葬場所さえも、正確にはわかっていないぐらい。行方不明なのです。
ところで、焼鳥は塩で食べても良し、タレで食べても良し。
両方とも正道ですが、食べるときには串の種類によってどちらかになりますよね。
決めて注文しなければなりません。
演奏も同じです。それをサポートするのが、楽譜。
でもおそらくレバーはタレ、軟骨は塩。
それが音楽で求められる「スタイルを把握している」ということ。
ねぎまにケチャップやジャムをつけたのでは、食べて具合が悪くならなくても、本来の伝統的な焼鳥ではありません。
「モーツァルトをモーツァルトらしく弾ける楽譜を編纂する」とは、そのへんのバランス感覚を問われる大いなるチャレンジです。学術的に誤謬のない、作曲家の意図通りの楽譜を再現する目的で編纂される原典版とはひと味違う「使って腑に落ちるみんなの楽譜」を作ろうと思っているのです。
楽譜として印刷する音符や記号のレイアウトが決まったら、
この楽譜を使って勉強する人のために、運指用の指番号を入れていきます。
これまた「こっちもあっちも捨てがたい」という悩みどころです。
人によって手の形も大きさも違いますからね、「これで文句なし」という決定打はありません。
加えて今回は「どの音符に表記するか」も工夫したいと、こっそりもくろんでいます。
必要なところに印刷するのは当然ですが、音楽のリズムに即した表示を追加すると、あなどりがたい効果が見込めそうなのです。モーツァルト演奏における「単純なはずなのに、なぜか指がからまる」という万人の悩みの解決につながるかも!?
補足の脚注も「できるだけわかりやすい日本語」にしなければ。
モーツァルトのソナタなら、小学生も弾きますし。
装飾音の弾き方についても、当時の装飾記号を実際の音符に変換した原稿を脚注用に準備します。
でも最近は、楽譜はコピーして使うのが主流になってきました。
出版社は憤慨し、泣いています。そして本屋さんや楽譜ショップも。
A4より微妙に大きいフォーマットで作られている楽譜をコピーすると、
苦労して練り上げた脚注が、コピー面に入りきらないことがほとんどです。
困ったもんだ。そこにこそ大切なヒントが隠されていることが多いのに…。
モーツァルトのソナタは1番〜18番まであって、
そのうち1曲は幻想曲+ソナタという構成になっています。
だから、実質19曲。
先のことを考えると気が遠くなりそうですが、
目の前の課題をコツコツと片付けていくしかありません。
大学を退職して以来、毎日が日曜日。曜日の感覚はすでに吹っ飛んでしまいました。
巷はゴールデンウィークといえども、わが生活ペースには変化なし。
楽譜編纂の作業にとっては、それが幸いしています。
あ、でも、さっきワンコを抱いてソファーで昼寝していたら、寝過ぎました…。
いかん、いかん。。。
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